たとえ親が亡くなっていても、みな親はあったのです。
人の心は見えなくても精神はあります。仏は見えなくても仏はあります。何故か、石、木、金でお姿が作られているからです。 お姿を見ればみな頭を下げ、手を合わせるでしょう。 あなた方のご先祖は目には見えません。心もわかりませんが、お墓の形になってこの世に再現されているのです。 人に自由意志があるように、墓の形にもいろいろな意志があるのです。人間にいろいろな心があるように、墓石も様々な形になって真実を訴えているのです。 人の心は見えませんが、精神があるということは明白です。 神様、仏様はたとえ目に見えなくても必ずあるのです。ただ見えないだけです。 だからいくらお性根を抜き供養されても、形になっている以上抜けないのです。抜けたと思って墓石を粗末になさると、必ず悪い影響があります。 |
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わかりにくい場所に無縁塔を建て、しかも石塔をセメントでつけて積めば、必ず建立者の家庭に、同じ形、動けない人ができます。しかし心からお祀りされますと、必ずお寺、檀家は栄えていきます。不思議なことです。 以下は岐阜県にいらっしゃる徳風会の先生から聞いたお話です。 ある日墓を見に行かれたところ、十人ほどおいでになっており一緒に墓を見ていかれたのです。九人までは先生がおっしゃった通りに家庭がなっており、皆びっくりなさったそうです。一人だけ言われたとおりになっていない墓の持ち主がありました。皆を集めてその墓のことを話されました。 「墓の相からいえば、子供無く財無く無縁になる家です」と言われましたが、その家は家運よく子供にも恵まれ、一家健康で何一つ不足のない家だったのです。先生は言われました。 「あなたの家には、人がなかなかできない陰徳を積んでいる人があるはずです」 さらによく聞かれますと、昔のお金で毎月五円ほどドジョウを買い、毎月先祖の命日に、二十五年間放生会をされ、人のとらない川に流しておられた家なのです。どのような生物でも死ぬところを助けてもらうことは、何物にも代え難いうれしさだと思います。なるほどと十人の方が得心されたそうです。 後醍醐天皇が流された島根県の隠岐島へ徳風会のお墓を建てに行ったとき、不思議な話を聞きました。 非常に長命な漁師の方がおり他家で全然魚が捕れないときでも、その家だけはよく捕れるのです。家の人にいろいろ聞きますと、網をあげたとき一番大きい魚を一網ごとに海に流しているとのことでした。 奈良では無縁塔積みに猛反対された家で、一夏に二人も高さ五尺のはしごから落ちて亡くなられました。隠岐島でも同様、無縁塔積みに反対していた漁師が、網に引かれて海に落ち亡くなられたのです。 人に心があるように、一個一個の石で作った無縁の石碑にも何か不思議なことがあるのです。何故か、石の形になって生きているからなのです。今日がすめば今日がないように、壊した形はかえらないのです。 悪相を吉相に変えれば、おいおい良くなるのでしょう。 不思議なことです。だが事実なのです。 |