明治時代になってお墓の形もずいぶん変わりました。どっと入ってきた西欧文化とともに、石を切る優秀な切断機が輸入されました。石材製品の加工が精密になり、これまで磨かなかった石まで磨くようになりました。
 当然お墓もその影響を受けました。それまでは法名の墓が多かったのですが、明治末期から、“何々家之墓”、“先祖代々之墓”という、一つで誰も彼も一緒にお祀りできる墓に変わっていきました。
 その結果、都会には一棟に多勢が同居するアパート・マンションが集団的にできたのです。今後もどんどん建っていきます。農村ではまだ法名の墓が多いので、アパートはあまり建っていないのです。
 日清、日露戦争では多くの戦死者を出しました。そしてその忠魂碑が全国至る所に建立されました。

親の顔に子供の顔が似るように、戦死者の墓の相がまた次の戦争を呼び、日中戦争や第二次世界大戦となって全国各地にまたまた慰霊碑や戦死者の墓が無数に建ちました。国家のために戦死された方は、各自が慰霊碑を建てるのではなく、護国の神として靖国神社に国の根としてお祀りされているのです。だから各自が建てられる場合は、普通に亡くなられたときと同じ形、法名を正面に彫って建立されたほうがよいと思います。私の家では兄弟や従兄など六人も出征しましたが、負傷一つせず六人とも無事帰還いたしました。私の家には忠魂碑も、変死する形の墓もありませんでした。
 第二次世界大戦後、膨大な数のお墓が全国各地に建ちましたが、その石碑の凶相の形が次に何を呼ぶでしょうか。全人類が死滅する核の時代ではありますが、冷戦が終わり核兵器による大規模な戦争の可能性は非常に少なくなりました。しかし、それに変わり終局のない交通戦争及び自然災害、殺人などが、日々激しさを増しています。列車と自動車の衝突、バスの転落、歩道を歩いていても安心できない時代になりました。
 いつ、どこから弾丸やトラックが飛び出してくるかしれないのです。こうした事故などによる負傷者や死亡者が毎日あるのです。全くお気の毒なことです。
 こういう風に見てくると、明治維新から今日まで、悲運の石碑が次々と新しい悲運を招いている事実は、全く不思議なことだと思います。
 逆死者(若くして親より先に亡くなる人)の墓を祖先より高く建てますと、子供が親に反抗するようになりますので、墓域内で下座に祖先の墓より小さい墓を建てる方が良いように思われます。




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